『アスペルガー当事者が語る特別支援教育〜スローランナーのすすめ』第三章
第3章 可逆的なもののもとへ――医療・療育・教育支援のアプローチ
第1節 問題提起
第2節 許容範囲と可逆性を高める支援
座談会03 倉本智明×高森 明
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SSTや感覚統合についての、もやついた私の思いに対する一つの回答でした。
座談会は、心理・福祉関係の人に読んでもらいたいと思いました。
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詳しい目次
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第3章 可逆的なもののもとへ――医療・療育・教育支援のアプローチ
問題設定
第1節 問題提起
1 ヴォルフェンスベルガーの悪夢
2 デザインニング
3 ハーバーマスの不時着点
第2節 許容範囲と可逆性を高める支援
1 原因予防
2 感覚統合
3 生活スキルの支援
4 言語・コミュニケーション手段
5 コミュニケーション・ルール
6 まとめ
座談会03 倉本智明×高森 明
笑いを利用した処世術
背伸びをしてしまう辛さ
インクルージョンと個別支援
"転ばぬ先の杖"の危険
学校教育は、必要悪?!
自己増殖する専門家たち
高森式"ゲゲゲの鬼太郎方式"
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詳しい感想
親として、いろいろ考えさせられました。(デザイニングの項など。)
また、「中間コミュニケーション技術の開発」の提案、が興味深かったです。
■覚え書き(自信ないので、伏せ字で。)
第3章 可逆的なもののもとへ――医療・療育・教育支援のアプローチ
問題設定
「本章は教育、医療あるいは療育などの医療モデル的なアプローチが、SR(スローランナー)
当事者たちにどこまで許容されるのかについて考察する。」
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第1節 問題提起
1 ヴォルフェンスベルガーの悪夢
ノーマライゼーションとは、
障害をノーマルにする事ではなく、生活条件をノーマルにすること。
この原理の普及後、障害者支援の目的は、保護から社会参加へと移行。
ヴォルフェンスベルガーさんが考えついた空恐ろしいノーマライゼーションについて。
2 デザインニング
「デザイニング」とは、
子どもに自らと同じ生物的特性、文化を獲得させようとして行われる営み。
一:身体のデザイニング
二:生活手段のデザイニング
(一例:ろう児に対する口語法指導。←に対して「ろう文化宣言」。「ろう者とは、
日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」)
三:価値観のデザイニング
「SSTは結局のところ多数派の社会に適合した方法にすぎないのでは」という意見。
3 ハーバーマスの不時着点
医療や教育に何らかの価値観の押しつけという側面は含まれてしまうが、
当事者がそれを軌道修正できる余地は残しておくこと。
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第2節 許容範囲と可逆性を高める支援
1 原因予防
SRとして生きるかSRを治療するかの選択肢は、
どちらの選択をしても著しい不利益を蒙らない生活条件下で決定されるべき。
2 感覚統合
感覚統合で目指されている感覚システムは「正常な感覚」ではなく
社会に適合した(多数派の)感覚。
SRの感覚システムが異質であること→新たな世界認識への入口に通じるかもしれない。
3 生活スキルの支援
教育支援において積極的に推進しておいた方がよいと思うのは、生活スキルの指導。
教育的アプローチにおいては、プロセスに関わる経験を積むことが大切。
(支援者サイドでお膳立てしすぎないこと。)
4 言語・コミュニケーション手段
文字言語、音声言語以外の言語・コミュニケーション手段の存在。
「中間コミュニケーション技術の開発」の提案。
5 コミュニケーション・ルール
SSTで語られる人間関係など定型発達者の理想であってフィクションだ。
状況倫理(暗黙の了解で成り立つルールの世界)から
規範原理(明示されたルールの世界)へ。
6 まとめ
教育や医療はSRが屋根に登るための階梯(はしご)のようなもの。
SRが屋根の上に登り切った時、その階梯は取り外されなければならない。
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座談会03 倉本智明×高森 明
倉本氏は、『だれか、ふつうを教えてくれ!』を書いた人。詳しくはリンク先(e-hon)へ。
快哉叫んだりしました。
同じ障害を持っている人との関係は大事。情報交換や、「自分一人ではないんだ」という思い。
障害者に対するパターナリズム。
"理想の学校”なんて語義矛盾以外のなにものでもない。
"参加すること自体が善"みたいな前提を疑おう。
「専門家」の危うさ、あるいはあざといマーケティング。
どこまでメインストリームに合わせるか?を知得するためにはメインストリームを知得しなきゃ?